「親父のように生きたくない」60歳を待たずに売却した経営者の決断|M&A EXITのタイミング論

経営者が会社を売却するタイミングは「いくらで売れるか」ではなく「自分と家族の人生をどこから逆算するか」で決まります。年商10億円未満の中小企業オーナーにとって、60歳定年から逆算する従来モデルはもはや最適解ではありません。健康寿命と現役年齢のギャップが想像以上に短いからです。
「60歳まで頑張って、それからは悠々自適に」と考えている50代経営者は多くいます。ですが実際に60歳を迎えた経営者の何人が、思い描いていた人生を歩めているでしょうか。父親の急逝を目の当たりにして接骨院チェーンを売却したある経営者のリアルな決断は、「タイミングの常識」を根本から問い直す材料になります。
本記事は、以前M&Aナビ主催セミナーにご登壇いただいた、ある連続起業家(接骨院チェーンと治療院特化ホームページ制作会社の2社をM&Aで売却し、現在は経営者コミュニティを主宰)の登壇内容をもとに構成しています。匿名化のため個人名・社名は伏せています。以下に登場する同氏の発言はすべて、同セミナーで公に語られたものを引用しています。
本記事では、同氏が自社売却に踏み切った背景と、その判断軸を中小企業経営者にとって再現可能な視点に落とし込みます。早期EXITを実行できる経営者の共通点、タイミングを逃した経営者が陥る落とし穴、そして今日から準備すべきことまで整理しました。
ある経営者がEXITを決めた理由
この経営者は、接骨院15店舗を展開する自社を2022年3月に売却しました。当時45歳。年商約4億円、従業員約100名規模の会社を、まだ働き盛りの年齢で手放した最大の理由は、父親の最期を間近で見たことにありました。以前のM&Aナビ主催セミナーで、同氏は次のように語っています。
父親サラリーマンで65まで必死で働いてて、定年退職になって、何をし出したかと言ったら、公民館行って何かをしだしたりとか、庭の仕事しだして、要はなんか暇そうにしとって、半年後ぐらいに脳幹梗塞、要は脳梗塞で入院して5年後に死んでもうたんすよ
大手企業で65歳まで勤め上げた父親は、定年退職してわずか半年で脳幹梗塞に倒れ、5年の長期入院の末に70歳で逝去しました。「定年後の人生」と呼べる時間は、実質ゼロに近いものでした。
同氏自身も、もともとは「60歳までは頑張ろう」と考えていたといいます。ですが父親の現実を目の当たりにした瞬間、その人生設計は崩れました。M&Aナビが開催したセミナーで、同氏はこう語っています。
60なんてじゃ自分の人生、父にいってらっしゃい、わけにはいかない。それは違うなと思った
この一言が、EXIT決断の核です。同氏には現在4歳と6歳の娘がいます。子どもが小学生・中学生になる10年間を、会社経営に追われて過ごすのか、それとも家族と過ごす時間に充てるのか。父親の事例が示したのは「健康なまま自由になれる年数は想像以上に短い」という事実でした。
実際にこの経営者は売却後、治療院特化のホームページ制作会社を買収・バリューアップして2024年12月に再売却。現在は経営者コミュニティで経営支援と資産運用を行いながら、2ヶ月に1回の資産運用セミナーを主催しています。会社員時代には絶対に実現できなかった時間の使い方です。
「60歳定年から逆算する」はもう古い ── 中小企業経営者のタイミング論
「経営者の引退年齢は何歳が最適か」という議論は古くから繰り返されてきました。中小企業庁の事業承継ガイドラインでも、後継者育成期間を考慮して60〜65歳での承継準備開始が推奨されてきました。
しかしこの「60歳定年モデル」は、サラリーマンの定年制度をベースに組み立てられたフレームワークです。中小企業オーナー、とくに創業社長には当てはまらない部分が3点あります。
第一に、健康寿命との乖離が大きいことです。厚生労働省の「健康寿命と平均寿命」によれば、男性の健康寿命は約72歳、女性は約75歳。60歳でEXITしても、自分の足で動ける時間は10〜15年しかありません。同氏の父親のように、定年直後に大病を患うケースも少なくありません。
第二に、創業社長の場合「経営している間は経営権を握り続けている」状態が長く続くため、引退の瞬間まで経営判断にエネルギーを使い切ってしまいます。サラリーマンが「定年に向けて緩やかに引退モードに入る」のとはまったく違います。EXITの瞬間まで全力で会社を動かす経営者ほど、引退後の燃え尽き症候群リスクも高くなります。
第三に、子どもへの事業承継が現実的でないケースが増えています。年商10億円未満の中小企業の場合、子どもの世代は別業界・別キャリアを歩んでいることが多く、親の会社を継ぐ選択肢を初めから持っていません。同氏も「娘が4歳と6歳で、事業承継という選択肢は基本的にない」と語ります。
つまり、現代の中小企業経営者にとってタイミング論の軸は「自分が何歳まで働けるか」ではなく「自分と家族がどれだけ健康で自由な時間を過ごせるか」になります。会社のゴールは『家族承継/上場/第三者承継(M&A)/清算/廃業』の5つしかない以上、どれを選ぶかを早めに決め、そこから逆算する発想が必要です。
早期EXITを実行できる経営者の3つの共通点
同氏のような早期EXITは、誰にでもできるわけではありません。実行に踏み切れる経営者には共通の準備パターンがあります。
共通点1:会社のゴールを5択で言語化している
家族承継・上場・M&A・清算・廃業の5択のうち、自社がどれを選ぶかを30〜40代のうちから言語化している経営者は、タイミングの来訪を見逃しません。たとえば年商3億円の塗装業の社長が「家族承継は子どもが医師なのでない、上場するほどの規模感も狙わない、ならM&A前提で組み立てる」と決めれば、財務改善・業績見せ方・キーマン育成のすべてが逆算で動き出します。
この経営者の場合、娘が幼く事業承継が想定外であった時点で「M&Aで売る」という出口が確定していました。だからこそ既存店舗の買収バリューアップ、決算書のクリーンアップ、組織化が「売るための準備」として一貫して機能しました。
共通点2:自社の代替不可能性を下げている
オーナー社長が現場の全意思決定を握っている会社は売れません。買い手から見たとき「社長が抜けたら回らない」リスクが高すぎるからです。早期EXITできる経営者は、自分が抜けても回る組織を意図的に作っています。
同氏は接骨院チェーン時代に幹部複数名を育て、各店舗の運営判断を任せていました。その後の治療院特化のホームページ制作会社(従業員約20名)でも、買収後すぐにキーパーソン1名を見極めて評価制度・新人研修・入社式の仕組みづくりをそのキーパーソン経由で行わせ、社長依存度を下げました。年商4億円規模の事業でも、オーナーが現場から離れられる構造を作れば、買い手側の評価は跳ね上がります。
共通点3:M&A経験者とプロを両方ボードに置いている
同氏は「目標を達成したい時に必要なのは2人。その目標を達成した人と、達成させたことがある人」と語ります。会社売却の文脈でいえば「実際に売った経験のあるオーナー経営者」と「売却を仲介したことがあるアドバイザー」の両方が必要です。セミナー登壇時、同氏は次のように述べています。
例えば、皆さん会社を例えば10億円で売りたいっていうんやったら、10億円で売ったことがある人にアドバイスを受ける。10億円で仲介したことがある人、いっぱい仲介した、そういう人をいっぱい自分の中で、その2人をなんか自分のボードに入れるっていうのはすごい大事やと思ってて
これは早期EXITを実現する経営者の鉄則と言ってよいでしょう。プロの仲介者だけだとポジショントークが混ざりますし、経験者だけだと最新の市場感に欠けます。両方を組み合わせて初めて、自分の意思決定の精度が上がります。
タイミングを逃した経営者が陥る3つの落とし穴
早期EXITの逆、つまりタイミングを逃した経営者は具体的にどんな状況に陥るのでしょうか。中小企業のM&A現場でよく見られるパターンを3つ整理します。
落とし穴1:健康問題が先に来てしまう
「もう少しで売却準備が整う」と思っているうちに、本人または配偶者の健康問題が顕在化するケースです。同氏の父親のように、現役引退直後に大病を患う事例は珍しくありません。健康問題が起きてからの売却は、買い手から足元を見られるうえ、本人がDD(買収監査)対応に必要なエネルギーを出せず、価格・条件ともに大きく後退します。
たとえば年商5億円規模の運送会社のオーナーが、67歳でガン宣告を受けてから慌ててM&A仲介に相談したケースでは、当初想定していた株価から3割ダウンでの売却に着地したという話はM&A業界でよく聞きます。健康なうちに動けるかどうかが、最終的な手取り額を大きく左右します。
落とし穴2:業績ピークを過ぎて株価が下がる
中小企業の業績はオーナーの気力・体力と相関します。70歳を超えると新規営業の本数が減り、既存顧客との関係性だけで売上が回る状態になりやすくなります。買い手は「直近3期の業績トレンド」を最重視するため、業績がピークアウトしてからの売却は株価下落に直結します。
年商8億円の食品加工業のオーナーが、ピーク時に売却していれば株価4億円相当だったところを、5年遅らせたことで業績が縮小し、最終的に株価2億円台での着地となった事例もあります。早期EXITは「儲け損なう」のではなく、株価のピークアウトを避ける賢い判断でもあります。
落とし穴3:従業員・取引先が「次の社長」を見限る
オーナーの引退時期が見えない会社では、優秀な幹部から先に転職していきます。次の意思決定者が誰なのかが見えない組織には未来がないと判断されるからです。同じ理由で、主要取引先も「いまのうちに取引先を分散しておこう」と動き出します。
タイミングを逃した経営者が「いざ売ろう」と思った頃には、肝心のキーマンと主要取引先が抜けていて、買い手から見た事業価値が大きく毀損しています。早期EXITを宣言しないまでも、自分の中で出口の時期を決めておかないと、組織は緩やかに崩れていきます。
中小企業経営者が今から準備すべきこと
50代の中小企業経営者が、同氏のような選択肢を持つために今から準備すべきことを4点に絞って提示します。
自社のゴールを5択で書き出す
家族承継/上場/M&A/清算/廃業のどれを目指すのか。家族構成・自分の健康・会社の成長余地を冷静に見て、現時点での第一候補を紙に書きます。ここを言語化するだけで、向こう10年の打ち手が大きく変わります。
売却前提で決算書を「お化粧」ではなく「整える」
役員報酬の調整、不要不急の交際費の整理、不動産・保険等のオフバランス処理など、買い手から見て不透明な数字をクリーンにします。粉飾とは違う、「実態を正しく見せる」作業です。決算書がクリーンであるほど、買い手のDDも短期化し、株価交渉も有利になります。
キーマンを「社長の右腕」レベルまで育てる
オーナー不在でも経営判断を回せる人材を1〜2名社内に作ります。同氏が治療院特化のホームページ制作会社で実行したように、評価制度・教育の仕組みづくりをキーマン経由で進めると、自然と社長の手離れが進みます。
M&A経験者・プロのアドバイザーと早めに接点を持つ
実際に売却した経営者と、M&Aアドバイザーの双方に話を聞きます。M&Aナビでは経営者向けセミナーを毎月開催しており、売却経験者の生の声を聞ける場を用意しています。「いま売る気はないけど話だけ聞きたい」のステージで動き出すのが、もっとも結果につながる準備の仕方です。
これらの準備を50代前半から始めれば、60歳を待たずに自分の意思でEXITする選択肢が現実のものになります。逆に60歳を過ぎてから準備を始めると、健康・業績・組織の3つのリスクが同時に襲ってきます。
よくある質問
早期に会社を売却すると「逃げた経営者」と見られませんか?
社内外への説明次第で印象は大きく変わります。同氏のように「家族との時間を取り戻すため」「次の挑戦のため」と明確に語れば、むしろ前向きなEXITとして評価されます。重要なのは売却理由を言語化しておくことです。
年商10億円未満でもM&Aで売れますか?
売れます。年商1から3億円規模でも譲渡実績は多数あり、買い手側のニーズはむしろ年商3億円前後の小規模案件で旺盛です。重要なのは決算書のクリーンさと、キーマンが残るかどうかです。
子どもがまだ小さい場合、いつ売却を検討すべきですか?
子どもが事業承継候補にならないと判断した時点で、M&A前提の準備を始めるのが合理的です。同氏は娘がまだ幼い時点で「事業承継の選択肢はない」と判断し、売却を実行しました。
売却後の燃え尽き症候群が心配です。どう備えればよいですか?
売却前から「売却後に何をするか」を言語化しておくことが最大の予防策です。資産運用、新規事業、コミュニティ運営、家族との時間など、複数の選択肢を持っておくと精神的な空白を回避できます。
売却理由として「父親の早逝」のような個人的な事情を買い手に話すべきですか?
買い手は売却理由を必ず気にします。むしろ家族の事情のような個人的で納得感のある理由のほうが、買い手の不信感を払拭しやすくなります。「業績が傾いたから売る」と思われるよりはるかに有利です。
M&A仲介会社の選び方で重要なポイントは?
会社名よりも担当者個人を見るべきです。同氏も「結局は人だと思ってて、どの会社さんがいいとかではなくて、どの人にお願いするかってめちゃくちゃ重要」と語ります。経験値・スピード感・自社業界への理解度の3点で見極めます。
売却までの準備期間はどれくらい必要ですか?
最低でも1から2年、理想は3年です。決算書の整備、キーマン育成、買い手探しまで含めると、思い立ってすぐ売れる話ではありません。だからこそ50代前半からの準備が決定的に重要になります。
まとめ
- 経営者が会社を売却するタイミングは「60歳定年からの逆算」ではなく「自分と家族の健康な時間からの逆算」で決める時代になりました
- 同氏の父親の事例(65歳定年→半年で脳梗塞→70歳逝去)は、定年後の自由な時間が想像以上に短いことを示しています
- 早期EXITを実行できる経営者には「ゴールを5択で言語化」「代替不可能性を下げる」「経験者とプロを両方持つ」の3つの共通点があります
- タイミングを逃すと「健康問題」「業績ピークアウト」「キーマン離反」の3つの落とし穴に同時にはまります
- 50代前半から準備を始めれば、自分の意思でEXITするタイミングを選べます
M&Aナビでは、会社売却を検討する経営者向けに無料相談を実施しています。「まだ売る決断はしていないが、選択肢として話を聞きたい」段階での相談を歓迎しています。実際に売却を経験した経営者との対談セミナーも定期開催していますので、まずは気軽にお問い合わせください。

株式会社M&Aナビ 代表取締役社長。
大手ソフトウェアベンダー、M&Aナビの前身となるM&A仲介会社を経て2021年2月より現職。後継者不在による黒字廃業ゼロを目指し、全国の金融機関 を中心にM&A支援機関と提携しながら後継者不在問題の解決に取り組む。著書に『中小企業向け 会社を守る事業承継(アルク)』
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